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第23走-2 カトマンズからヒマラヤを望む 後編:それを知らない最後の人々

 首都カトマンズに戻って4日目の未明、僕はトリブバン国際空港の入り口で時が経つのを待っていた。入り口と言っても建物の前ではなく、さらに手前、一般道から空港の敷地へと入るゲートのようなところである。同じようにわずかな希望を抱いた外国人旅行者がぽつりぽつりとやって来て、空が白むのを待った。

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 ネパール政府がすべての国際線の運行停止を発表したのは、エベレスト街道のトレッキングを終え、翌朝にはカトマンズへ戻ろうとしていた夜だった。運行停止は2日後、つまり明日を最後に国際線の運行はしばらく取りやめとなる。この急転直下には為すすべもなく、日本への帰国予定は宙に浮いた。

カトマンズにある日本人の営む居酒屋。ここに入るとまるで日本に帰ったような気分になる。

 このときネパール国内の感染者数はまだ一桁に過ぎなかった。しかしその数日後、政府は今度はロックダウンを決定し、その開始を翌朝6時と発表した。日本では考えられないスピード[1]である。だが政府も何も考えていないわけではなく、猶予を与えないことで買いだめなどの混乱を防ぐ(期間中はほぼすべての店が営業を禁止される)といった意図があるらしい。とはいえその日、日持ちする食料や日用品を求めて近くのスーパーに行くと、閉店間際ということもあって、やはり多くの外国人旅行者が詰めかけ、それぞれが「巣ごもり」に備えた品々を両腕に抱えていた。

 

 このときすでに国際線の運行は停止されていたものの、一部の中東系エアラインのみはまだ動いているらしいという情報があった。そして実際に翌日の便を予約することができた。

 しかし翌朝にはロックダウンが始まり、そうすればタクシーも走らなくなる[2]。ということで、僕はふたりの日本人旅行者とともに、ロックダウンがまだ始まらない未明にタクシーで空港まで向かった。タクシー運転手にとってはリスキーな依頼であり、宿のスタッフが何人かに電話した末、ひとりが相場の数倍を支払うことで来てくれることになった。こういうときに頼りになるのは、なんといっても現地の人のツテであることを実感した。

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 結局、ゲートから先に進むことは許されなかった。中東系エアラインもその日以降、運行が停止となった。僕たちは重い荷物を背負い、来た道をとぼとぼと歩いて帰った。

 その後も僕たちは何度となく、期待のあとには失望を、願いのあとには諦めを覚えることとなった。結局できることと言えば、「人事を尽くして天命を待つ」ことのみだった。

 



[1] 間違っても「スピード感」ではないですね。本当にスピーディなのだから。

[2] ロックダウン中の制限事項には、次のようなものがある。(1)医療における緊急事態や食料の購入を除き,外出してはならない。(2)許可された車両,および医療や治安関係者が使用する車両を除き,公用および私用車の使用は禁止される。(3)治安機関や指定されたフライトを除き,全ての国内線の運行を停止する。(4)各事務所の責任者は,医療,治安,食料,水,牛乳,電気,通信,税関,検疫,ゴミ処理などの重要なサービスを除き休暇を許可しなければならない。(在ネパール日本国大使館からの3月24付の領事メールより)

 

ロックダウン中は交通も制限され、用もないのに車を走らせたり出歩いていたりすると警察官に止められる。

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 ロックダウン中はレストランも開いておらず、ごく一部の店がテイクアウトを提供していることを除けば、食事は宿に頼むしかなかった。しかし物流が滞っているため食料品がまともに手に入らず、朝食は1品、2品と次第に少なくなっていき、一時はパンさえ出なくなった。近所のキオスクで買える食材といえば、スナックやインスタント麺の類ばかりだった。キオスクは一日のうち短時間、しかも不定期にしか開いておらず(開けているのを警察に見つかるのを恐れているようだった)、また宿のスタッフには感染リスクを減らすためになるべく外出しないように言われていた。そこで、キオスクが開いたタイミングを見計らい、ここぞとばかりに買い物に出かけた。それが唯一の気晴らしという日々が続いた。

ロックダウン中のカトマンズ・タメル地区。普段なら土産物店や飲食店で賑わい、タクシーやリキシャの客引きで騒がしいエリアだ。

 同じ宿には同じようにネパールに閉じ込められた日本人が、最終的に10人近く泊まっていた。

 僕がその宿に到着した翌日、ひとりのおじいさんがやってきた。ここに来るまでは、ネパールの地方の村に長期間滞在していたらしい。すでに仕事は引退しており、一年のうち半分をこうして生活費が安い国で暮らしているという。

「カトマンズに行った方がいいって言われてな」と言う。

 確かに、国際線ばかりか国内線のフライト、長距離バスも明日から動かなくなる。日本への帰国を目指すならば、国内唯一の国際空港がある首都にいた方がすぐに動けるし、情報も手に入りやすい。

 だが何となく会話が噛み合わない。

「何だかよくわからないけど、カトマンズに行けって言うから」

 彼は周りに言われるがままバスに乗ったが、事態を把握し切れていないようだった。われわれはいくつかの質問をした。

「そのコ、コロナっていうのは何だ?」

 この発言がすべてを物語っていた。彼はいまだ世界を襲っている感染症について、何ひとつ知らなかったのである。武漢で起きている原因不明の肺炎が日本で報じられる前から、彼は言葉の通じない村で過ごしていた。われわれは驚きを隠せなかった。このおじいさんは最後から何番目に知った日本人になるのだろう?

 あれから半年以上経つが、いまだ知らずに生活する日本人もあるいは存在するのかもしれない。

 

 

 おじいさんはある意味世界から取り残されていたわけであるが、僕たちの日常が一変するのに要した期間はたった3ヶ月だったということもできる。われわれの生きる時代の交通や物流は、毛細血管のように、世界の隅々まで効率よく「もの」を運ぶことができるのだ。

街なかに登場した簡易手洗い場。

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 3週間後、いまだ国際線の運行停止もロックダウンも続く中、われわれは政府から特別に許可された日本行きの便で帰国すべく、さまざまな思いを抱えながら空港へ向かうバスに乗り込んだ。

 

 

 空港の入り口(今度は建物の前)では、カトマンズで働く日本人の商工会がおにぎりと麦茶を配っていた。1ヶ月ぶりのおにぎりの味は今でも忘れられない(ちなみに他の人に訊くと昆布や梅などの具が入っていたというが、僕がもらった2つのおにぎりはどちらも具なしだった。なぜだろう)。

正直言って日本で食べるおにぎりと比べて米がずいぶん固かったけれど、久しぶりの「日本食」は本当においしかった。

 機内で『ジョジョ・ラビット』という映画を見た。第二次大戦下のナチス・ドイツを舞台とし、総統を空想上のヒーローとする無垢な少年と、反ナチスの母親が家にかくまったユダヤ人少女との交流を描いた物語である[1]。物事のシリアスさはまったく違うのだけれど、終戦を迎えようやく外の空気を吸ったユダヤ人少女の姿は、ロックダウンから解放されたわれわれとどこか重なるところがあった。

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 排気ガスで空気が汚染されているカトマンズからは普段、ヒマラヤ山脈を目にすることができない。しかしロックダウンによって劇的に交通量が減ったことで、カトマンズの空が澄み、数十年ぶりにその稜線までくっきりと見えるようになった。われわれはこの数ヶ月で多くのものを失ったけれど、思いがけない贈り物もあると知った出来事だった。

(了)

 



[1] 機内では英語の音声しかなかったので、帰国後に日本語で見直したくらいこの映画は面白かった。よかったら見てみてください。